叔父の死

以前、父の弟(独身の叔父)が亡くなったら、両親も兄弟もいなくなってしまった叔父は姪である自分が最後の見送りをすると決意したブログの記事を書いた数時間後、実は叔父が亡くなりました。

 

たぶん、その記事を書いているのも見ていたかもしれません。そういうときはやたら肩が重かったり、眠くなったりします。

 

しかも、父が亡くなってから四十九日も経っていなかったので、そのブログを書く二日前くらいに、「会いたい人に会う誘導瞑想(妹作成)」というのをしたんですが、実は、父が今どうなのかなと思ってやった瞑想になんと叔父が出てきたのです。

 

しかも叔父はめちゃくちゃ笑顔で完全に覚醒している!といった表情だったので、「んんん?亡くなってもないおじさんがなんでこんなに覚醒した表情なの???」と不思議でした。

 

でも、父と叔父はとても犬猿の仲のようでつながりが深いと思っていたので、近い時期に亡くなるかもしれないという思いがありました。

 

これも、また妹に報告して、父に会う誘導瞑想をしたのに、覚醒したすごいさわやかな表情の叔父さんが出てきたんだよね、、、と話しました。

 

夜中に叔父の入院している病院から電話があったので、これはもう何かあったと思いました。

 

亡くなったのが日曜日だったので、病院の方は急がなくて大丈夫ですよと言ってくれました。

 

パパッチは月曜日の仕事が休めないということで、私とハッチとナナッチで叔父さんの病院へ向かいしまた。(途中弟も拾って)

 

病院につくと叔父さんは父と同じ、肺炎で亡くなっていました。

 

とてもやせてしまっていて、亡くなり方まで父と同じようでした。

 

でも、ハッチとナナッチが来てくれたからなのか、笑顔に見えるんです。

 

ナナッチも「〇〇おじさん、笑ってるね!」と。。。

 

日曜に亡くなり、土日プラス月曜が友引で、この地域では火葬が出来ず、火葬が混みあっていて水曜日に火葬になってしまったのです。

 

なので、ハッチとナナッチは学校を3日間休みました。

 

祖父、祖母、父、父の弟である叔父さんが生まれ育ったこの地でゆっくりしていってね、一緒に過ごそうねと言っているようでした。

 

そうか、父の故郷であるこの地を楽しもう!と思いました。( ´艸`)

 

だから、ホテルを予約して、火葬までの間、叔父さんの家に行ったり、ショッピングモールで過ごしたり、こどもの国に行ったりまるで旅行のような3日間を過ごしました。

 

父がよく教えてくれた生まれ育った地元の〇〇山を見て食事が出来たとき、皆勢ぞろいしているな・・・とうれしくなりました。

 

夜は、飲みやさんのようなお店で食事をして、子どもたちはとってもわくわくして、楽しみました。「〇〇おじさん、頑張ったよね、、、」とハッチ。

 

ハッチに3日間も学校休んじゃったね!と言うと「学校のことより、〇〇おじさんのことのほうが大事だから!」という答えが返ってきました。

 

すばらしい!

 

勉強より大切なこともあるよね!

 

 

ナナッチが描いたれんごくさん

家族の最後の整理(実家の処分)

2017年に母が亡くなり、2020年に父が亡くなるまでにしたことで一番大変だったのが、実家の片づけと処分でした。

 

コロナ前のことで、日本で2020年の夏にオリンピックが開催されるはずだったので、その前に売ってしまいたい!と妹と話しをしていました。

 

家を売る前に、母が乗っていた軽自動車の処分が先だよね、、、ということで、車検も切れてしまった車を廃棄処分するよりは、売ったほうが楽だろうということで、買取業者に電話をして、妹が日本に帰国しているときに査定と買取の手続きをして連携して処分しました。

 

税金も滞納していて、それはうちにすべて郵送してもらい清算しました。自動車税を払っていないと売れないので!

 

そこで、火が付き、車が処分できたんだからということでその勢いで妹が日本にいるうちに実家を売る手配を始めました。

 

実家は調整区域で売るのが面倒な土地だったので、売ります!と名乗り出てくれた業者は三●のリハウスしかありませんでした。

 

その担当者が実家付近の家を売却したことがあるそうで名乗り出てくれたのです。

 

私が父の代理人となりました。妹には実家に行ってもらい担当者さんと会ってもらい見積もりを取りました。

 

何より、この大量の荷物がある実家の片づけを少しでもしようと何度か片づけに行きましたがとにかくゴミ処理場にトラックで持ち込んでも洋服を捨てるので精いっぱい、大人四人で片づけてもまだまだ残っている・・・

 

それでも実家の外側だけ片づけサイトで売りに出す準備をしていると、担当者さんが業者にも声を掛けてくれて、なんと業者さんがほぼ希望価格で買い取ってくれたのです。

 

サイトで売り出す前に!売れたので、大量の荷物の処分代は売れたお金から払うことにしてくれて、結局片づけ業者に頼みました。

 

業者さんは大変だったと思います💦一軒家でゴミ屋敷化していたので・・・

 

この汚い家を個人に売るのは気が引ける・・・なるべく業者さんに買い取って欲しいという願いが実はありました。( ´艸`)

 

そんなこんなで、父親の施設の費用も年金では足りなくて、きょうだいで赤字分を負担していたんですが、実家を売ったお金で払えるようになりました。

 

買った本人(父)が売るということで、私が父の代わりに確定申告に行ったんですが税金も免除されました。(それほどの金額でもなかったので)

 

空き家問題がありますが、父が神奈川から愛知の老健に移動して3年以内(住民票の移動上)だったので、免除されたようです。

 

とにかく空き家にしてそのままにしておくと固定資産税も上がり残された人はとても大変になりますよね。

 

実家は父方の祖父母が半分お金を出してくれて購入したものだったので、亡き祖父母にも本当に感謝しました!

 

おじいちゃん、おばあちゃんありがとう🌟

 

だから、おじいちゃんとおばんちゃんの子供である父と叔父さんのことは任せておいて!という気持ちになったのかもしれません。

 

母親は子供のことをいつまでも心配している・・・自分が子供を得てその意味がよくわかりました。亡くなってもずっとずっと見守ってるはずだなと。。。

 

親戚・家族の最後の整理をする(独身の叔父さんの場合)

ママッチの母が2017年に亡くなり、父が2020年に亡くなりました。

 

パパッチの父母のことは置いておいて、もう一人ママッチ関係で最後の見送りをしなければいけない親戚がいます。

 

それは、父の弟(独身)で私たちにとっては叔父さんにあたる人です。

 

叔父さんは入院しているんですが、認知機能も衰えてきて、財産管理もよくわからなくなっています。

 

そんなところに、ある宗教団体が毎日のように訪れていたようで、月に数万の寄付をしていたりしました。

 

私たちは両親が共働きだったので、近所のおばちゃんに私たちは面倒をみてもらっていました。

 

そのおばちゃんが、母親の納骨のとき「宗教団体は根こそぎ財産を持って行くから本当に気を付けて」と言われてこれはなんとかしなくてはと思っていました。

 

アメリカにいる妹が日本に帰国したときには毎回叔父さんのお見舞いに行っていたんですが、毎回毎回宗教団体の方がお見舞いに来ていたようです。

 

このままでは、全財産(いくらあるのかわからないけど)を持って行かれるよね・・・

 

妹と話し合って、叔父さんに「後見人をつけよう」ということになりました。

 

私は特別養子縁組で家庭裁判所に申し立てをしたことがあるので、書類が全部揃っていなくても、申し立てはできるのではないかと思い、とりあえず叔父さんの戸籍謄本等を郵送で取得したり法務局に行ったりできることはしました。

 

申し立てをするとすぐに電話がかかってきて、足りないものがあるといろいろ言われましたが、●月●日にそちらのほうに出かける予定があるので、その日を呼び出しの日にしてもらえないか?と言ってみるとなんとOKが出ました。(遠かったので)

 

後見人については本当にわからないことばかりで一か八かでしたが、最低限の書類で申立てが出来たのです。( ´艸`)

 

調査官さんは後見人までつけれるか(補佐になるかも?)はわかりませんよと最後まで言われましたが、とにかく本人に面会して決めてくださいと言いました。

 

すると、叔父さんに司法書士後見人を付けることが出来たのです。

 

もし私が家庭裁判所に申し立てをしたことがなかったら行動も起こさなかったと思います。こんな無茶な申し立てができたのも経験があるからこそ!

 

「行動してみる」ことの大切さを身に染みました。

 

叔父さんはまだ健在ですが、親・きょうだいが亡くなっているので、最後は私たちきょうだいが見送りをすることになっています。

 

大丈夫!父親のときと同じことをすればいいだけなので。

 

実家の処分につづく・・・

 

葬儀が終わってから(国保の返還、生命保険の請求)

父の葬儀が終わった翌朝、「父 返還」という男性の声が聞こえて起きました。

「返還」って表現するんだ。

ちゃんと帰りましたよ!ということでしょうか。

 

こちらは現実的な手続きで国保の返還やら介護保険証の返還やらを手続きに行きました。

 

まずは、施設にお菓子を持っていままでのお礼と荷物の引き取りに行きました。

 

パパッチが午後からの仕事だったので、午前中に一緒に行けて、施設の話などしていると、ぐわ〜と涙が込み上げてきたので、ちゃんと見てるんだな(後ろに乗ってるな!)と思いました。父だけじゃなく母も!

特養施設の前でちゃんと母の誕生日の車のナンバーと通り過ぎました。( ´艸`)

 

午後からは、国保、介護保険証、手帳などを返しに行きました。

葬儀屋さんが、領収書を見せれば5万円の戻りがありますよと教えてくださったので、手続きをしました。

 

10月15日もらえるはずだった年金も出るそうです。

亡くなった日の月まで年金が出るようです。

 

年金事務所に電話するように言われ、まずは予約を取りました。

父は施設に入っていましたが、父の住民票は別世帯でしたが、うちと同じだったので、スムーズに手続きできました。

私の振り込み先の通帳を持って、父との関係がわかる戸籍謄本(父が亡くなったあとに取得したもの)、父と私のマイナンバー死亡診断書のコピーで手続きが出来ました。

 

10月15日に父の口座に入っているか、口座凍結などで入っていなければ4か月後に私の口座に入金になると言われました。

※後日、確認に行ったところ口座は凍結していないので、父の口座に最後の年金が入っていました。

 

亡くなったあとも、9月分の施設代や入院費が出るのでとても助かります。

 

生命保険は医療保険と少しだけ死亡保険も出るタイプに加入していて

医療保険部分は「入院費用領収書のコピー」

死亡保険部分は「死亡診断書のコピー」受取人が私になっていたので私の免許証のコピーや、保険会社から郵送された請求書などを書いて送りました。

 

父が亡くなったときは、すべて整理が出来ていたので何もかも楽でしたが、母が父の面倒をこれ以上看れないという状態になったときに、母親を入院させ、父親を神奈川県から愛知県の老健に移動させるときが何よりも大変な時期でした。

 

弟ではまずやらないだろうということで、母が亡くなったときに、アメリカの妹が日本に帰国している時に、生命保険の受取人を私に変更したり、山のような書類の中から保険証を探し出したり、通帳を見て、何が引き落とされるのか、支払っていないものをすべて支払ったり。

 

母が退院したあとは、電話で母や父のケアマネさんに指示して、デイサービスに行けるようにしてもらったり、夕飯だけ宅配弁当を届けてもらうようにしたり・・・離れていてもなんとかなるもんだなと思いました。

 

これから親御さんの面倒を看られる方におすすめなのは、親御さんが元気なうちに、どれだけの収入があり、どんな支払いがあるのかすべての通帳をコピーするなどして管理しておいたほうが何かといいと思います。

 

施設等に入所するときに、介護保険負担限度額認定証などを取得するときにすべての通帳のコピー等が必要になります。

 

親のことで何をしたか子どもたちや自分の記録ためにも少しずつ書いていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

父 天国へ旅立つ☆4 完璧な旅立ち

旅立つということがどういうことかを事細かく教えてくれる父(他大勢)にすでに感謝と感動の数日間でしたが、いよいよダウンの日がきました。

朝、子どもたちを学校に送り出した午前8時30分。

病院からの電話で看護師さんが慌てた様子で「急に心肺停止になってしまって・・・」と若干声が震えている。

 

まず思ったことが、「看取られるということは望まなかったんだ」(子供がいるので私に負担をかけたくなかったのかも)

 

ていうことは、亡くなっているということだから・・・

「家族みんなで行こう!私一人ではドキドキしすぎて無理・・・こんなとき一人で行くなんて勇気がいるわ〜」

私が準備している間にパパッチには小学校に二人を迎えに行ってもらいました。

そして、アメリカの妹と東京の弟に取り急ぎ「お父さんが心肺停止」とメールを送りました。

 

午前中の早い時間だったため、弟は出勤前で、二日間は確実に休めるということで新幹線で来てもらうことにしました。

 

私たちは家族全員で病院に向かい、大きな病院なので駐車場もたくさんありP2の5Fって覚えてる?とパパッチに聞いてみると、「そんなの覚えてない!」(やばくない?)

「入口は18番だから!」とこんなときほど誰かが冷静にならねばと思うママッチ。

 

結局電話から一時間後の9時30分に死亡確認が済み、やっとおじいちゃんに会うことができました。ハッチは、病院に向かう車の中で「おじいちゃ〜ん」と号泣。ナナッチは割と冷静でした。

 

死亡確認が済んで体を拭いてあげる作業をママッチとナナッチでしたあと死因の確認のようなことを医師が11時にしますというので、コンビニに行って一度落ち着き、葬儀屋さんに電話をしました。葬儀屋さんはすでに決めていて、12時に霊安室に行きますとのこと。

 

霊安室から葬儀場へそれぞれの車で一緒に向かいました。

葬儀場について、死亡届など、葬儀社さんがやってくださり、弟も東京から来て翌日の火葬まで家族だけであたたかく送ることができました。弟は父と一緒に寝てもらい、私たちは家で寝ることにしました。

翌朝、また葬儀場に行ってみると、、、

「おじいちゃんが笑ってる〜」とナナッチ。

確かに顔が笑ってるように見えました。

 

葬儀の様子はアメリカにいる妹にもラインカメラで中継しました。

 

父親が全く未練なく逝っているせいか、骨になってしまったおじいちゃんを見ても二人は泣きませんでした。糖尿病で結局両足切断、目も左目は見えずで不自由だった体には未練がなく、自由に飛び回れてうれしいという感じすら受けました。

 

父親は、視える方のところへも挨拶に行ったらしく、旅立ったことをラインで連絡するとこのような返信が・・・

 

お父さんはとても律儀できちんとされた素敵な方ですね。

素敵な笑顔で挨拶してくださりきっと満足した人生を送られたと思います。

子供たちに生かされ感謝した人生だったんだろうと思います。

ハッチくんやナナちゃんにお爺ちゃんと言われることがうれしくて二人のことがかわいくてしょうがなかったようですね。

ありがとう!ありがとう!ありがとう!とお父様の笑顔が浮かびました。

 

甘いものが大好きなお父さまなのでお茶と一緒にお供えしてあげてください!

 

本当に全く迷惑をかけない日と時間を選んで旅立った父。

十月の第1週はハッチの修学旅行があるからその時だけはやめてね・・・とは言ってましたが、アメリカの妹以外は集まれて、葬儀の日は私の車の点検まで入っていたんですが、それも少し時間をずらしてもらうだけで予定を取り消さずにできました。

 

そして、オリンピック前に実家を売ろうと決めて、すぐ売れたり、何もかも整理が出来てから亡くなったので、物理的な面でも全く思い残すことがなかったと思います。

たくさんインスピレーションをくれたので、私たちも心の準備が十分にでき、すでに大きな愛を感じていました。

 

 

☆ナナッチが描いたイケメンのおじいちゃん(棺に入れました)

 

葬儀が終わり、ナナッチと一緒にお風呂に入ろうとすると急に肩が痛い!

え〜おじいちゃんお風呂に入りたかったのかな?肩が痛いよ〜といいながらお風呂に浸かっていると、ナナッチが肩もんであげる〜とマッサージしてくれました。

 

「そうか、おじいちゃんはナナッチにマッサージして欲しかったんだね」

 

肩が痛くなったのはその時だけです。(わかりやすい)

 

アメリカの妹は、亡くなったときはあの世でパーティーやってるよと教えてくれたけど、こっちには全然来ないよ・・・と。

 

「うちいるよ。だって、ハッチとナナッチがおじいちゃん・・・といろいろ話しかけてるし!」

孫パワーは最強です❕

 

☆9/21敬老の日のために撮った最後の写真

 

☆父 50代前半の頃

 

 

父 天国へ旅立つ☆3 瞑想で聞いてみる

誤嚥性肺炎で入院した父は隔離部屋にいて面会が出来なかったので、亡くなる六日前の出来事ですが、母親に会う誘導瞑想をしてみようと思いやってみました。(母親なら何か教えてくれるかな?と思って)

 

母親、テントウムシ、観音様、龍神様と母方の祖母が最初に視えました。

なんかいつもより賑やかだな〜と思っていると、今度は40代の頃の父と母が二人で写っている写真が見えました。

なんですでに父親が視えるのかな?とちょっと不思議でした。(まだいつ亡くなるかわかっていなかったので)

 

すると病院から電話があり、血圧が45まで下がって抗生剤を強め、血液にも菌が見つかったとのこと。

動揺して、また視える方にラインを入れるママッチ。

 

お父さんですが、お別れが近いと思います。

魂はかろうじて体についていますが、ほぼ離れているのかなと思います。

●●(ママッチ)さんにはお別れはもう済んでいるんだとおっしゃってました。

●●さん家族は心配ない!とも言われていたので安心されてると思います。

お母さんと一緒に挨拶まわりをされているのかなと思います。

 

え!!!!

あの瞑想のとき出てきたのが最後の挨拶だったんだ・・・

そのときは、今までいろいろあったけど最後はすべて感謝の気持ちしかなくて

「産んで育ててくれただけでありがとうなんだな・・・ありがとうしか出てこない・・・」と涙がたくさん出ました。

 

その後、3,4日予定があったりでバタバタしていて、亡くなる二日前に父方の祖母の顔が寝る前に見えたり、亡くなる一日前に「父 ダウン」というビジョンを見て朝起きて、いよいよ近づいて来てるかもとドキドキして夜中とかは勘弁してね〜と思って寝ました。そして朝、子どもたちが学校に出かけてから病院から電話が入りました。こんな朝早く・・・何かあったに違いない。

 

つづく

父 天国へ旅立つ☆2 亡くなる一週間前の出来事

9月20日に救急車で運ばれ、病院で待っている間に仲良くさせてもらっている(前世からご縁があるらしい)とても視える方にラインをしました。

 

ママッチ:

9月5日は父の誕生日だったんですが、実はその日に私は子どもたちと茨城県にいて、ピンクの看板に白い文字で 家族葬 と書かれた看板のビジョンを見ました。そして昨日はナナッチと一緒に洗車をしてガソリン満タンにしてお金を降ろそうと郵便局に行くと緑色のきれいな鳥が死んでたので、おじいちゃん天国に行くかも・・・とナナッチと話してたんです。しかもその直後に父方の祖父が亡くなった日のナンバーの車が目の前にありサインかと思いました。

 

お父さん、お母さんに呼ばれてるみたですね!

お父さん自身、全く悔いが残っていないみたいです。

子供たちに迷惑はかけられないと言ってます!

お母さんが迎えに来てくれたから、心配するんじゃないと言ってますよ。

 

じ〜ん。

泣きそうです。先に逝った母が迎えに来るでしょうから心配はしていませんが、ただ苦しまずに逝って欲しいそれだけです。

 

大丈夫ですよ!お父さんはすでに苦しんでいないはずです。

意識が朦朧とされているのかなと・・・

お母さんと一緒にいるから大丈夫です!

お母さんがお父さんの頭を撫でていました。

とにかく、お父さんもお母さんも、子どもたちには迷惑はかけられないと強く思っているみたいです。

 

コロナでアメリカの妹は来れないし、弟は東京なので、私が主導で家族だけで送ろうと思います。

 

お父さんはきっとそれを望んでいると思います。

たくさんの愛と楽しみと喜びをありがとうと言っているはずです!

一番頼りになる●●さんだからこそのお父さんの最後のわがままなんだと思います。

●●さんご家族が一番の楽しみで頼れる家族だったんだと思います。

 

そういえば、コロナ前は毎週のようにお寿司を老健に持ち込んで、子どもたちとキャンプに行った話をしたりすると、嬉しそうにしてたな😢

 

この日は、敬老の日で、ハッチはデイで、ナナッチはお友達と遊びに出かける日でした。

とても、平和な空気が流れていて、私は妹とライン電話で話をしたり掃除をしていました。

 

父と母がきっとハッチとナナッチを見に行くなと感じた日で、一日に何度か愛の波動みたいな涙がこみあげる瞬間があり、これは本当に逝く時が近づいていると実感する一日となりました。

 

ナナッチが帰ってくると「今日は何度も光が飛んでるのを見たよ!お友達とご飯を食べるときは椅子に誰かが座っているようでそこに座ることが出来なかった」と話してくれました。光は、お風呂場や学校でも見たそうで、ハッチとナナッチがどんな生活をしているか父も見に来たんだろうと思いました。

 

つづく

父 天国へ旅立ち☆1 入院までのこと

先月2020年9月28日に私の父が天国へ旅立ちました。

母が、2017年7月7日に旅立ったときは、透析を20年近くしていましたが、夜に心臓が止まってしまいました。

 

急死という亡くなりかたで、本人も心の準備が出来ていなかったせいか、死後、三か月位はよくうちにも来ているのがわかるほどでした。

例えば、朝の5時に電気をつけるとか、テレビで心臓マッサージのシーンがやっているとナナッチが「悲しい・・・」と泣きだすとか、夜に子どもたちと一緒に寝ようと思うとナナッチの目つきが変わり、私を見て「悲しい・・・」と泣き出すとかが何度かありました。

 

でも今はずいぶん浄化しているようで、子どもたちのことを見守るのはもちろんいろいろ動き回っているような気がします。ベビー救済活動のときもふと母親のことを考えることがあるのできっとヘルプしてくれているのだろうと思っています。

知り合いの方のお母さんが亡くなる前日、母と母方の祖母が一緒に喪服で夢に出てきて「あなたは(お葬式に)行けないから私たちが行ってくるわね!」みたいな感じで出てきてくれました。亡くなる前は母と祖母はあまりいい関係ではなかったのかなと思うところもありましたが、今は仲良くしているようです。

 

さて、父親のときはというと・・・

母の急死とは真逆の相当前からの準備をさせてくれました。

最初は亡くなる一年前くらいでしょうか。父親がタンカーで施設から運ばれるビジョン(朝起きる直前に見る短い動画)を見ました。そして、同時に「父の葬儀のことはすべて私がやらなければならない」という印象を受けました。

 

2020年は3月頃からコロナで施設も面会が出来なくなり、6月1日に老健から特養に移動することが決まり、会ったのはその日が最後でした。特養の車を待っているときに肩をマッサージしたり1時間くらい会うことができました。

それから一か月位して施設から電話があり、父が私と話したいと言って声を聞いたとき、声がとても弱々しく聞こえたので、旅立ちは近いかもと思いました。

 

以前はああだのこうだの要求が強かったのですが、その日はあまり自分から話さないので「施設のスタッフの人はお父さんのお世話をしてくれているんだからいつもありがとうって言うんだよ!」と言ったのが最後の会話でした。

 

アメリカに住む双子の妹には私が見たビジョンのことや父の近況を常にラインや電話で報告していました。私がすべて一人で葬儀などをしなければならない印象が来た話では二人で「コロナの時期は人が多く亡くなるしこの時期に逝くと決めてるのかもね。たぶんあんた(妹のこと)は父親のときはアメリカからは来れないね・・・」とすべて自分でやる覚悟をしていました。

 

心配性のママッチには十分なほどの心の準備をあげておかなければ!という(多分父方の祖父からの)配慮がありました。

 

そして、9月20日(20日というのは父方の祖父の誕生日)施設から「午後二時頃、急に顔色が悪くなり、酸素濃度が65%と低くなったので救急車を呼びます!」と電話がありました。そして近くの大学病院に搬送されたとまた連絡を受けたので、向かいました。

 

施設の方がいろいろ手続きをして下さり、医師から話を聞けました。

胸のレントゲンから誤嚥性肺炎だろうということでした。肺炎の場合、コロナと結核の検査が必要で隔離された個室に入り面会も出来ないと言われました。

延命治療はしないことなどにサインをして、夕方また担当の医師から電話があり、延命治療の確認をされました。鼻に管とか、胃ろうとかの話になりましたが、それで少しの間長く生きてたとしても本人はそれを望まないと言って、延命措置はとらなくていいと言いました。このような決断をして、話さなければならない身内の人たちは辛いだろうなと気が付きました。

 

この日は、急に腰が痛くなり何か(多分お父さん)来てました💦

 

つづく

瞑想で母と会う

アメリカに住む妹が「お母さんと会う誘導瞑想やってみる?」というので、「やりたいけど、年内は無理かな〜忙しいから」と言ったものの、夜子どもたちが先に寝たので、隣でスマホを耳元に置きながら、やってみました。(音声ファイルで)

 

ちゃんとその日は寝室がある二階の掃除をしていました!

 

呼吸を整えているときから、なぜか涙が出ていることに気が付きました。

あくびしたっけ?

まあ、気にせず続けよう・・・

 

(想像の中で)母と会う場所は、熱田神宮の弘法大師お手植えの樹齢1000年以上の大楠がある場所にしました。

顔が浮かんでくるかどうかわからないので、最初は、遺影の着物を着た写真の母の顔を思い浮かべてみました。55歳くらいのときの母の写真の顔です。

 

すると、少しして家に飾っている40代の頃の母の写真の顔にぱっと変わりました。(勝手に)

母と面会しているときの感情は、とにかく「ありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいで涙が流れていまいした。お互いに「ありがとう」の連呼だったのかもしれません。とにかく細かいことはもういいや!という感じで、ありがとうしか出てこない。

 

「あの世に行ったとき、再会するとこんな気持ちになるのだろうか?」と思いました。

「すべてひっくるめて学びをありがとう!」とにかく感謝のエネルギーにあふれていて涙がずっと出ていました。

 

少しすると、父方の祖母の顔も見えました。叔父(独身で入院中)の顔も見えて、「息子をよろしく」と言われている気がしました。死んでも息子が心配・・・その気持ちは私もよくわかります。「大丈夫だよ!ちゃんとやるからまかせておいて!」と心で答えました。

 

誘導瞑想により、母のシンボルは「鳥」でした。抽象的な絵のように見えましたが、終わりのころに窓から飛び立つ白い伝書鳩が数羽見えました。母はこの世とあの世で伝書鳩のようなことをしてくれているのかもしれませんね。

 

最後に別れるとき、象に乗って消えていきました。インドの神様の(像の姿をした)ガネーシャかな?とも思いましたが遠くに見えるので象のようなものとしかわからなかったです。

 

普段、瞑想をほぼしないので、できるかどうかの不安がありましたが、やってよかったです。

会えた実感があります。そういえば、母の誕生日は12月です。これからは毎年12月に必ず母と会う誘導瞑想をしたいと思います。

 

 

父の現在

 

私(ママッチ)の父は、2016/7/7から愛知県の老健でお世話になっています。

 

糖尿とパーキンソンと診断されていて、薬や食事制限をしていても血糖値が高い状態です。

 

一時は、足が腐って高熱が続き、食事もできなくなり胃ろうになりましたが、もともと「食べたい」人なので、現在は、胃ろうをやめ、刻み食で食事ができています。

 

パーキンソンのせいか、夢と現実がわからない状況がありますが、普段はほぼ寝たきりではありますが、リハビリは頑張っているようです。

 

お尻にジョクソウがあり、長時間座ってはいられません。

 

最後まで口からご飯を食べれたらいいと思います。

実家の片づけ

2018/10/8の出来事です。

 

 

2016/7/7に父が神奈川実家から愛知の施設に移動して、そのちょうど一年後の2017/7/7に母が亡くなりました。

 

今は、独身の弟が一人で実家に住んでいますが、全く片付かないので、私・ハッチ・ナナッチとアメリカの妹夫婦が一緒に実家に行き片づけることに。。。

 

弟が全く捨て方がわからないので、ごみ処理場に運ぶことだけをやってもらい、妹の旦那さんがハッチは、本を二階から一階に運んで!みたいなことを英語で言っているので、「ハッチ本をここに持ってきて!」というと「よ〜しわかった!」とものすごくはりきって片づけてくれました。

 

私はリビングの物をとにかく捨てまくる!考えずに捨てる!

 

妹は父の部屋、妹の旦那さんは母の部屋の物をとにかく捨てる!基本、山のような洋服をゴミ袋に詰める作業。

 

ハッチとナナッチには、「片づけないとこんなになっちゃうよ!」と印象付けました。

 

妹の旦那さん・・・よくこんなところに住めるね・・・同感!!

 

片づけはまだまだ続く。

老健の父★外出★知多

2017年10月18日(水)

 

 

アメリカから妹が帰国していたので、弟も神奈川から駆け付け、老健に入所している父をランチ外出に連れ出しました。

 

福祉車両をレンタカーして・・・

 

 

父は海鮮丼などペロリと平らげ、ビール!とあまりにしつこいのでノンアルコールビールを「はいビール」と言って出したら「こんな味だったかな。ビールの味も忘れたよ」と言ってました。汗

 

お尻のジョクソウが痛くなってきたので、慌てて老健へ戻りました。

 

ナナッチは保育園をお休みして連れて行きました〜

 

 

母 七夕に旅立つ その6(お別れ会)

先日、母のきょうだい達が集まり母のお別れ会をしました。

 

 

行きの高速からは曇りや雨模様の天気でしたが、なんとか富士さんを見たいと子どもたちが「風小僧雲をどかして〜」と言いながら叫んでいると本当に富士さんが見えました。

 

ナナッチはなんどもなんども「七夕さま」の曲をリピートしていました。一番繰り返し聞いていたのが「七夕さま」で次が「春が来た」でした。

 

町田インターを降りるとナナッチが「お母さん送ってくれてありがとう。大大大大・・・大好きだよ〜」と!

送ってくれてって???母も大好きなハッチとナナッチと一緒にドライブしてたのかもしれません。

 

車の中ではナナッチが「おばあちゃんとパスタ屋さんに行けてよかったね。セーフだったよね」と。。。

最後に会えてよかったということだと思います。

 

ハッチは、お腹が痛いのにパスタを全部食べておばあちゃんに「全部食べて偉いね〜」と言われたことを思い出しました。

 

 

母のお別れ会は町田で懐石料理で個室にしました。

 

母は下から二番目です。母の姉、兄、弟夫婦が来てくださいました。

 

一年前の2016/7/7に父が愛知県の施設に入所して二人が離れ離れになったころからいつ亡くなってもおかしくないと思っていたので、母が歩けなくなって相模原の病院に入院したことをおばたちに知らせたところ、お見舞いに来てくださいました。

 

なので、一年前に会っておいてよかったと話していました。

 

母の近況等を話しましたが、ハッチは大人しく食事をしていましたが、ナナッチは緊張したのか、変なことばかり言ったりやったりであまりゆっくりは話せませんでした。

 

また、四十九日のときに来て下さるようなのでそのときは今日みたいにふざけたことばっかりしないでね!とナナッチに言いました。そのおかげで明るいお別れ会となりました。

 

 

 

お別れ会のあとは、マックの遊具でストレス発散する二人。

 

 

その後…ホテルでゆっくりしました。

 

「今日はつかれたね〜」

 

 

 

うちに帰ると、ハッチがすかさず、おじいちゃんとおばあちゃんと会わせてあげようよ〜と言って、二階の父の写真をリビングに持ってきました。

 

「おじいちゃんとおばあちゃん、喜んでるよ〜。おじいちゃんにはトーマス、おばあちゃんにはパーシーを飾ってあげる」

 

お花の水は毎日変えてくれるし、お水も変えてくれます。お供えをするとお義母ちゃん(認知症)がいつの間にか食べてしまって水まで無くなっていることがあるのでびっくりすることがります。汗

 

「おじいちゃん、おばあちゃん草むしりしたよ・・・」と報告している姿は本当にかわいいです。

 

 

母 七夕に旅立つ その5(父への告知)

2017/7/11に母の火葬を済ませ翌日に妹も一緒に愛知県の父の入院している病院に向かいました。

 

とりあえず自宅に帰り荷物を降ろし、パパッチが家にいたのでハッチは家で遊ぶことに・・・あとで回転寿司に皆で食事に行く約束をしました。

 

私と妹とナナッチは父の入院する病院に向かいました。

 

一週間も病院に行けなかったのでナナッチの「おじいちゃ〜ん」という声を聞いた父は「お〜」とものすごくうれしそうな顔をしました。

 

少し時間をおいて「実はお母さんが亡くなったの」と妹が言うと、目を丸くしてものすご〜くびっくりした顔をしたあとすぐに号泣しました。

 

実は、私はその姿を見て初めて涙が出ました。きついな〜このあと精神状態がどうなってしまうのかと・・・でも9日にお見舞いに来てくれると話していたので、嘘はつけない。

 

12日に父に告知をしましたが父は夢で会ったのか「3日前(9日)にお母さんに会ったんだよ。お母さんはお弁当を食べているというので俺が何か作ってやると言ったんだ。とてもきれいで大好きだよって言ったんだ・・・」と。

 

もしかしたら9日に会いに行こうとしていた母が本当に他界したあと父のところに行ったのかもしれないと想像すると泣けて泣けてしかたありませんでした。

 

二人が病気になってからは、お互い近くにいると不満やわがままや喧嘩でうまくいかないこともあったでしょうが、本来はとても好き同志なんだなと思うと切ない気持ちもありました。

 

とにかく何日かは妹が愛知に滞在するので毎日お見舞いに来るからと約束して帰りました。

 

翌日から数日間は妹と一緒にお見舞いに行きましたが、やはりショックだったのか妄想が強くなってちょっと大変でした。

 

父のことも大変なんですが、母も亡くなったばかりなのでわかって欲しいことが強いようで・・・

 

救命医療のドラマを録画していたものをナナッチと一緒に見ていると、心臓マッサージのシーンになってこんなこと今までにはなかったのに、火葬のときのように私をじ〜っと見て「悲しい〜」と泣きだしたのです。

 

最後誰にも看とられず大学病院で一時間心臓マッサージを受けた母はきっと自分の姿をみていたのかもしれません。

 

「私もこんな最後だったの〜」と言わんばかりにナナッチを通して泣いているように感じて、背中をさすって慰めるしかありませんでした。

 

母の思いと父の思いを受け止めなければならないのでひとりではきつかったなと思います。妹が帰国してくれてランチをしながらああだこうだこれからどうすると話せて気を紛らわせることが出来て幸いでした。

 

急な死で、家族だけで見送る形になったので母のきょうだいから連絡があり、愛知から悪いけど町田あたりに出てきてもらって話が聞きたいと言われ会食の場を設けることになりました。

 

つづく

 

 

母 七夕に旅立つ その4(父の病院に向かう)

母の火葬が終わり、翌日妹も一緒に愛知県に車で向かい父の病院に行って母の死を告知することにしました。

 

次から次へと課題が出てきて火葬が終わっても一応一段落…という気持ちには全くなれませんでした。

 

それでも私一人で告知するより妹がいてくれることが何倍も心強かったので神奈川から愛知へのドライブは重々しい気分ではなく済みました。

 

ちょっとお腹がすいたので休憩&食事をすることに…

 

子どもたちはうどんがいいと言い、私はあまりお腹が空いていなかったので迷っていると妹が「そばが食べたかったのに、手が勝手に五目ラーメン押しちゃったわ〜」(爆笑)

 

「え〜まじで?お母さんラーメン好きだったもんね。それに野菜も制限あったから五目ラーメン食べたいのかもね」と私。

 

私は、お腹がそれほど空いていなかったので子どもたちと妹が食事をしているときにSAをぐるっと一回りしてきました。

するとなんと横浜の崎陽軒のシュウマイ弁当が売っているではありませんか!

 

父がこじんまりとシュウマイ弁当を作って商売がしたいと私に訴え、母が老健にいる父のお見舞いを最後にしたときも私が作ったシュウマイを母が食べさせた想い出のシュウマイ(笑)

 

その近くに飾られているF1?だかの車のナンバーが今日の「12」。

 

シュウマイを食べようかと思いましたが、あまりお腹が空いてなかったので結局私もミニラーメンにしました。

父と母が最後に会ったのが老健で2017/5/2で、父がシュウマイをどうしても食べたいというので吸引機を用意してもらいながら食べさせる日でした。

 

ちょうどそのときに弟と母が見舞に来る日だったので皆で父のシュウマイを食べるのを見守りました。(命がけ。汗)

 

私も後悔のないように冷凍シュウマイはやめて前日に手作りして届けていました。

 

そのままでは食べられないだろうと思いましたが、小さくして食べることができたのです。

そして、母親に「お父さんに食べさせてあげたら?」と言って、食事の介助をやってもらいました。

 

父は「ペースが速いんだ!」と怒ったり、「ゆっくり家族で食事をするというのがしたかったんだ」というようなことをポロっと言いました。

 

老健の方達もゆっくり食べてくださいねと言ってくださり、父と母はゆっくり食事の時間が持てたのです。

 

私はその時母に、父と母の遺影の写真はどれがいいか決めてもらいました。父は50代前半の親戚の結婚式のときの写真(私が撮影したもの)
母も50代のときの写真で私が着つけをして神社に参拝に行ったときの写真を選びました。

 

そしていつこれが最後になってもおかしくないと思っていたので、母親に自分の今回の人生がどうだったかとたずねていました。

 

母は父に向かって「まあまあだったわよね〜…子どもたちはいい子に育ったし…」と話していました。

 

「まあまあな人生」がリアルな母の感想だと思います。思い残すことはあるし、完璧に何の後悔もないとはもちろん思っていないでしょう。

 

でも最後まで「家族」がそれなりの形で寄り添えまたような気がします。小さい子どもがいる私が最後に父の面倒を看ることになったことは心苦しかったのもよくわかってます。

 

そして、本心を言えばハッチとナナッチと暮らして楽をしたかったと思います。でも一方で最後まで息子と一緒にいたいというのもあったと思います。

 

私はいつもこれが最後かもという覚悟があったのでそれほどの後悔がありません。希望であったぽっくり逝きたいという願いはある意味叶ったし、これ以上家族に迷惑かけたくなかったんだろうと思いました。

 

父と母が最後に会った5/2はゆっくりとした家族の食事の時間が持てました。父は一人でお酒をちびちび飲むのではなく家族で食事の団欒をずっと願っていたというのがよくわかりました。

 

この日相模原に帰るとき、ナナッチが母の手を引いて車まで一緒に行きました。そのときは本当にうれしそうな顔をしていました。

 

私も子どもたちに助けられているとつくづく思います。

 

つづく

 

母 七夕に旅立つ その3<火葬>

7/10に納棺式を済ませ、7/11の11時から火葬となった母。

 

時々妹のそばというか妹の眼を通して自分を見ている様子の母。(に感じました)

時々涙する妹でしたが、私は相変わらず他にも何人も火葬される方がいたので子どもたちがあまりうるさくしないように神経が子どもに集中して全く泣けず客観的なママッチ。

 

納棺式のときに入れたバラや手紙の他にさらにお花をたくさんいれてどんどん顔がきれいに変わっていき一番いい顔をしていました。

 

ハッチとナナッチもおばあちゃんの顔の周りにたくさんお花を飾ってくれて最後のお別れ。

 

納棺式でゆっくり家族だけでのお別れができていたので、そうそう長い時間もとれないと思い「ありがとう」を言って棺桶の蓋が閉まりました。

 

ハッチとナナッチには「死んだ人は最後は焼いて骨だけになっちゃうからね」と説明していました。

 

焼かれている間、お清めを頂きながら葬儀屋さんの男性も交えてお話しているとその方のお祖父さんがパーキンソン(私達の父も糖尿病でパーキンソン)で東京の病院に入院したが奇声を発するので個室じゃないとだめと言われ月に40万の支払が一年続いたと聞いて、「ひえ〜老健で12万の支払でも年金が少ないのでひ〜ひ〜言ってるのに信じられません!」とびっくりしました。

 

そして骨だけになったおばあちゃんに対面することになるのですが、、、

 

骨を見たい見たいとキャッキャしていたハッチとナナッチでしたが、ナナッチが「お母さん抱っこして。よ〜く見たいから」というので抱っこして骨を見てここがどこの骨とか説明を聞いていると・・・

 

ナナッチが私の顔をじ〜と見て「骨になって悲しい〜」としくしく泣き出したのです。

 

今までは妹のところにいた母がナナッチのところに来たときょうだい全員が瞬時に理解しました。

 

すると、弟がナナッチに向かって「お母さん・・・」と話かけだしたので、私は「おいおいそれはやめてよ」と心でつぶやきましたが泣き方がいつもと違うので「骨になってもこころの眼は残ってるから大丈夫だよ」と何度もなだめました。

 

少ししてナナッチも普通に戻り、今度の使命は私と妹で透析で20年もお世話になった病院にご挨拶に行くことと、ご近所の不義理をしてしまっていた方々にお詫びと葬儀が終わった報告をしに行くことでした。

 

こうなると完全に母の代わりに動かされている状態です。浄化してもらうためにはやるべきことをどんどんやろうと迷わず決意しました。

 

車の中でハッチとナナッチが喧嘩していると「うるさい〜ってお母さんが言ってるから静かにして〜」と妹。なんか過敏になっている妹。

 

透析を20年して頂いた病院に着くと先生もご挨拶に来て頂き、ロッカーに残っていた荷物を預かりに行きました。

 

すると、そのロッカーの番号がナナッチの誕生日2/16の「216」番でびっくり。

 

そして、次はご近所のお世話になった方に火葬を終えたことをご報告。まずは一番お世話になった方のおうちへ。

父と母が社員食堂の自営で共働きだったので小さいころから預かって面倒みて頂いたIさんのおばちゃんとおじちゃん。

 

Iさんのおばちゃんは「水臭いじゃないの!!!」と怒っていました。Iさんのひ孫さんがなんと男の子と女の子の双子だそうでそれもまたびっくり。

 

父の介護やら現実を受け入れられなかった母は私からみたら介護うつのように見えました。近所の人にうまく助けてを言えなくなっていて誤解されていたというか人格も変わっていたと思います。

 

「本当に付き合いが下手ですいません、おばちゃんには本当に感謝しています。うちの両親が働けたのはおばちゃんが私達を面倒みてくれたからです」と平謝り&感謝。

 

「施設に入っている父がIさんのおじちゃんとおばちゃんには本当に感謝していると涙を流しながらお礼をしてくれと言われてたんです」と話すとおばちゃんの心は少しほぐれたようでした。

 

私はおばちゃんに「おばちゃんが私達の面倒を見てくれたから養子の子どもを迷いなく育てることができるのかもしれない」と言い忘れた!と車の中で後悔しました。

 

そんなこんなで、一応今やるべきことは済んだかなと使命を果たした私達は町田に戻り一泊して翌日12日に愛知県の父が入院する病院に向かいました。

 

つづく

 

 

 

 

 

母 七夕に旅立つ その2(納棺式)

7/7に母が他界し、7/8に死亡が確認され7/9に安置室に家族で会いに行きました。

 

ハッチとナナッチはホテルが大好きなのでホテルでのお泊まりが楽しくてしょうがない様子。

 

7/10は12時から納棺式でした。妹が「お母さんが赤いバラを納めて欲しいって!」と言いました。

なんと私には安全地帯のマスカレード「あなたは嘘つきな〜バラ〜♪」という曲が鳴り響いていたのです。

 

やっぱりなんだかんだ言っても最強の「バラ」か〜女は・・・素直な母の気持ちだと思いました。(私は最後どの花を選ぶのだろうか・・・と思ってしまいました)

 

12時まで時間があるから、バラを買って、手紙を書いて入れることにしました。

 

ハッチからは「おばあちゃん、今度ドライブしようね!」(ん?あんまり死んだ意味がわかってないかも・・・)

 

ナナッチからは「おばあちゃん、天国の皆とたくさん遊んでね」(すごい!・・・わかってる・・・)でした。

 

納棺式ではメイクもして頂き、最初の土色の肌でちょっと怖かったおばあちゃんがきれいになりました。

 

「なんか観音様に見えてきたね」ときょうだい達。。。

 

口紅もローズピンクにしてもらい、顔まで剃ってからファンデーションを塗ってくれるのにびっくりしました。

 

ナナッチはお化粧に興味津々。

 

白装束になり、最後あの△のがおでこにされたらおばけみたいで笑ってしまいそうとまたもや不謹慎なママッチ。

さすがにそうはなりませんでした・・・

 

母に産んでくれてありがとう、お疲れ様!を言って1時間ほどで終わりました。バラの花もお手紙カードも入れて

「おばあちゃん喜んでるよ」

 

納棺式が終わり時間があったので、座間の永代供養をしてもらうお寺を見学に行こう!ということになりました。

こんなにゆったりと母を送ることができるなんて家族だけの葬儀もいいなと心底思いました。なにしろ母の気持ちがよく伝わってくるのです。

 

お寺についてここがいいよねと確認できて、夕食は町田で妹と色々話しました。昨年歩けなくなって入院したあとは、私が母のケアマネさんに電話をして、月・水・金は透析なので、火・木・土はデイサービスにしてください、食事はお弁当を宅配してくださいと頼みました。最初こそ嫌がっていたデイも最後は楽しく行けるようになっていました。

 

歩けなくなってしまったときは父の介護で近所の人たちとの交流もなくなってしまっていてかなり辛い状況だったのでデイの方たちと交流できてよかったなと思っています。一年前の状況で亡くならなくて本当によかった。

 

翌日はいよいよ火葬です。

 

つづく

 

 

 

2017/7/7七夕の夜に旅立った母 その1

2017/7/7七夕の夜に母が天国に旅立ちました。

思い返せばちょうど一年前の7/7に父と母は別々に暮らすことになりました。

父は私が愛知県の老健施設に入所させ、母は歩けなくなってしまっていたので相模原の病院に入院することになったのです。

 

七日の夜、母が一緒に住んでいる(独身の)弟に胸が苦しいと電話したそうですが、弟は救急車を呼ばなかったので家に帰ったときはすでに心肺停止の状態で亡くなっていたようです。その後近くの大学病院に運ばれ心臓マッサージを一時間位したそうですが戻らず7/8の午前1時1分に死亡が確認されました。

 

7/8の朝ラインを見るとお母さんが亡くなった…と書いてあり、子どもたちに今日のたんぽぽ会は行けないと話すと大号泣。

 

私の車で一緒に鈴鹿に向かうはずのクレープ夫妻さんに連絡しないと!と思いましたが弟から連絡があり、家で亡くなったので解剖しなければいけないと言われている…とのこと。すぐに向かっても待つ場所もないし(実家は荷物であふれ泊まれる状態になく)いつ葬儀になるかわからなかったので結局参加することにしました。

 

一年前に父が施設に入所するときに必要な介護保険負担限度額認定証というのを申請するために父と母の通帳のコピーを取り、お金の流れを把握していたので、葬儀社に電話をするように弟に伝えました。「どこに連絡すればいいのかわかんない」というので我が家にある母の通帳のコピーを見て「○○○!」と怒りながら連絡しました。なんでそんなことも同居の弟に伝えていないの?という怒りと弟が何もわかっていないことへの苛立ちと、一年前にお金の流れを把握しておいて本当によかったと安堵感といろんな感情でかなりピリピリしていました。

 

たんぽぽ会は無事に終わり、クレープ夫妻さんとショコラ君と帰りにマックに寄って晩御飯を食べたときに実は母が亡くなったとクレープ夫妻さんに話しました。そのころには火葬は11日に決まったとラインが入っていました。

 

たんぽぽ会の帰りの夕日を見るとなんと彩雲が!母も子どもたちが楽しみにしていたたんぽぽ会の邪魔はしたくなかったんだろうと思いました。

 

家に帰ると実家には泊まれないので町田のホテルを3泊予約して9日の午前中に出発しました。アメリカに住む妹も9日には町田に到着できるというので9日はとにかく皆で安置室に向かってお母さんに会ってから弟も一緒に町田で飲む予定をたてました。

パパッチは二日間お休みをもらえたんですが、お義母ちゃんの2カ月に一度の認知症の診察があったのでお義母ちゃんの面倒をみててもらうことにしました。

 

妹の旦那さんもどうしても仕事がキャンセルできず来日できなかったので本当に子どもたちと孫たち(ハッチとナナッチ)だけで見送ることにしました。

 

町田には4時間位で着く予定でしたが、厚木インターから町田インターまでの間が事故渋滞ということで厚木インターで降り町田に向かいましたが、真言宗で永代供養をしている座間にある御寺の前を偶然にも通ることになりました。

 

父も母も一年前からいつ亡くなってもおかしくないくらい状態がわるかったので葬儀はここ、永代供養の御寺はここに頼もうと色々とシュミレーションしていたのです。

 

「これはもうこの御寺でOKというサインだわ〜」とラインを入れました。母の好きな観音様も祀られていて雰囲気もいい感じの御寺でした。

町田まで下道もだらだらと混んでいて結局着いたのは夕方の5時でした。

 

町田で妹に会うと、「お母さん今日は満面の笑みでみえたよ。亡くなってから自分のきょうだい達に会いに行ったみたいだけど、八王子の○○おじさん(母の弟)をまっさきに見せて心配してるみたい。」と妹。

 

「ハッチとナナッチが来てくれたから何より喜んでるでしょう〜」と私。

 

私はハッチとナナッチに「死」を教えるということで結構頭がいっぱいで、弟が安置室で撮った母の姿をラインで送ってもらい出発前にハッチとナナッチに写真を見せました。

おばあちゃん死んじゃったよと説明しながら、なぜかその写真が化粧っけもなくちょっと怖い感じだったので私が笑ってしまいました。(←不謹慎)

二人には「おばあちゃんにお化粧してあげようね〜」と言いました。

 

安置室では写真を見せていたこともあり、そう怖がらずに二人はおばあちゃんの顔を触って「冷たい〜」と言っていました。

おばあちゃんは今、透明人間みたいになってこころのお目目だけで見てるよ〜と説明。「たましい」は意味がわからないので・・・。

 

どうも妹のところに母がいるようで、妹を通して自分の遺体を見ているようでした。私は子どもたちの対応と反応を見るので感傷に浸る余裕もなくといった感じでした。

 

とりあえずその後町田で飲んでゆっくり話そうということになり、10日は12時から納棺式ということでその翌日11日の11時から火葬というスケジュールになっていました。

 

結局警察が家に来て遺体に外傷がないことから解剖はしなくていいことになりました。死因は心不全とのことでした。

 

20年近い人口透析を続けていましたが、最後は楽に行けてよかったと思いました。ただ弟が救急車を呼んでいたら弟が最後を看とるくらいはできたかもしれません。

 

ハッチとナナッチ居酒屋でたくさん食べて楽しそうにしていました。二人は大人の仲間入りをして特別な体験をしているといった感じもありました。

 

私とハッチとナナッチがシンポジウムの帰り6/25(亡くなる13日前)に相模原に寄って母と一緒にランチをしたときのことを話しました。

 

ランチが終わり、私の車で実家まで母を送ろうとしたとき、ハッチもナナッチも「おばあちゃんの隣はいや〜!!」と今までそんなことはなかったのに二人ともおばあちゃんの隣に座れなかったの。だからそのときから子どもたちは何かを感じてたのかもね…」

 

母は父の介護から解放されたのもよかったのか、半年くらい入院したあとなんとか杖を持って歩けるまでになり父の老健にも何度かお見舞いに来ていました。ランチしたときも今度は7/9に父の入院先にお見舞いに行きたいと日にちを決めてからわかれました。

 

弟によると9日にお見舞いに行くので服にアイロンをかけていたとのこと。

 

しかし、7/9を待たずに旅立ってしまいました。

 

つづく

 

足の火葬

 

父の足のジョクソウが悪化して結局もう一方の足も切断せざるを得なくなり手術をしました。

 

本人も足が痛いし嫌とは言いませんでした。

 

病院はなんといつもドラマ「マザーズ」の母子寮を撮影をするところの近くです♪

 

 

 

手術後すぐ段ボールに入った足を持ってきてくださいました。

 

ごみとして捨てることはできないので 火葬場に持って行かなければならない とのことゆう★

 

翌日足を切断したという診断書を持って火葬場に行きお金を払い足を置いてきました。

 

骨を持って帰るというのはできない とのことです。

 

手術の前日いつものように腰などをマッサージしていると(切断するほうの足が痛いので)「さすってくれ」と言われ心の中で

長年働いてくれてありがとうを言いましたき

 

 

胃ろうでもシュウマイ食べる・・・

 

先日、老健から電話がありました。

 

「どうしてもシュウマイが食べたいとすごい剣幕なので5月2日に言語聴覚士と看護師が付き添い食べて頂くことになりました」

 

「わかりました。シュウマイ持って行きますね。ちょうどその日は母と弟がお見舞いに来るので・・・」

 

 


なので、5/1にシュウマイを作って持って行きました。

 

長い結婚生活の中で3回くらいしか作ったことがないシュウマイを〜

 

ハッチもナナッチもお惣菜のシュウマイはお肉だよと言っても絶対に食べなかったんですが、私が作ったものは「おいしい〜」と食べてくれました。(シュウマイ克服)

 

どうやって食べさせるんだろう?すりつぶしちゃうんだろうな〜

 

 

 


と思いきや、そのまま出してくれました。ただ、なめらかなかまなくていいおかずと一緒に絡めて!

ゲホゲホ涙流しながら食べてました。痰の吸引をしてもらいながら!

 

咳が出せなくなったら完全に胃ろうのみになるのかなと思います。

看護師さんが食べさせてくれてますたが、長くなりそうなので母が食べさせることに・・・

 

 

 

すると、あげるペースが早すぎて夫婦で喧嘩に・・・

 

父は、家族と一緒にご飯を食べれるなんてずいぶん久しぶりのことなので、ゆっくりと話ながら食べたかったようで・・・

 

実家ではちびちびウイスキーを飲みながらちょっとつまむという感じだったので、とっとと食べちゃって〜という感じが耐えられなかったのでしょう。。。

 

 


最初は全然声が出なくて、何言ってるか全然わかりませんでしたが、マッサージと食事でかなり声が出るようになりました。

 

もっとこうして欲しいああして欲しいが強いので、不満とか怒りとかのエネルギーで保たれているようなところがありますが、怒り爆発で老健の医師に「シュウマイが食べたい」と言ったおかげで願いが叶いました。(結局シュウマイ2個食べました)

 

今日(5/5)はハッチが放デイで子どもたちでランチ作りをしているようです。
ナナッチは、ちょっとだけお勉強とお買い物&老健コースです。

 

胃ろうになりました・・・

★父の老健で〜

 

1月に父の足のジョクソウがひどくなり手術をしました。

そのあと2月になっても、熱が下がらず糖尿があるので、経過があまりよくない状態が続いていました。

このまま死んじゃうかもと本気で思って、お葬式について調べたり、遺影の写真をどうするかとか皆で考えました。笑

 

遺影の写真は私がデジカメで撮った最近のでいいか〜と妹にラインで送ると、妹の旦那さんが「No!!!」と却下汗

 

アルバムを全部見直し我が家にある数少ない父の写真から親戚の結婚式のときに私が撮った一枚を選んだら「OK手」と妹の旦那の了承を得ました。(父が50代の頃の写真で一番父親らしさが出てる笑顔のもの)

 

父は声もでなくなり、食事もできなくなり、鼻からチューブで栄養や薬を取っていましたが、鼻のチューブを抜いてしまったことがあり、再度レントゲンを見ながら入れないといけないということで、たびたびやられても困る・・・ということでミトンのような手袋をすることになりました。(拘束にあたるので老健からは家族に連絡が来ます)

 

 

 

 

もうこのまま弱って寿命・・・ということも考えられたので、生きているうちに会っておこうということで妹がアメリカから帰国しました。

 

私達二人でお見舞いに行くと、実家に帰れるのでは?と考えたようで、父がものすごい実家に帰りたいモードに入ってしまい、ミトンも被害妄想を助長する結果になり、わがままとうか不満が爆発したときがあって、妹がはじめて父の手に負えないわがままを目の当たりいにし、どっと疲れてしまいました。

 

わかったでしょ!怒りモードがどんなか〜。こんなもんじゃないときあったよ、顔をぶるぶるふるわせるくらい怒ってたときとか、やばいと思って公園に連れ出したんだもん…毎日今日はどんなかびくびくだよ〜

 

 

 

 

そんなこんなで、数日間毎日お見舞いに行って2人でマッサージをし続け、なだめていたら、どんどん声が出るようになりました。

 

とにかく口から食べれるようになろう!ということで、老健の人達もまずはゼリーを食べるというリハビリをしてくれるようになりました。リハビリを数日するうちに、父が「ご飯と梅干と白菜の漬物が食べたい」と言い出しました。そう思えるようになっただけすごいと思い、練り梅を買ってきて、ゼリーでリハビリ後、ソフト食になったときにご飯のような(茶碗蒸しくらいやわらかい)ものに練り梅を混ぜて、私がはじめて食べさせました。すると、嬉しそうな笑顔が出ました。梅干しは祖母が毎年作ってくれていたので、格別な想い出があったんだと思います。

 

 

 

妹が来てくれていた2月14日のバレンタインデーの日に、2人でマッサージをしながら色んな話をしました。

 

結局、お父さんておばあちゃんが一番好きなんじゃない?」(なんでも手作りで作ってくれたしね、食べ物は…胃がんのおじいちゃんの面倒を家で見てたし、それと比べられたら誰もかなわないわ〜)

 

「(迷わず)うん!(やっぱり!母には絶対に言えない)」

 

天国のおばあちゃん、喜んでるだろうな〜男はお母さん大好きなのわかるわ〜

 

胃ろうの話ですが・・・鼻にチューブしながらの昼間のソフト食も辛いので、先日老健の関連の病院で胃ろうの手術をしてもらいました。老健の先生や看護師さんから胃ろうのメリットデメリットを色々伺っているうちに父もわかったようで、納得しました。

 

今は、昼間だけソフト食で朝と夜はチューブで栄養でしたが、3食とも食べれるようになれば、胃ろうを辞めることも可能だと…でもパーキンソンなのでどんどん食べられなくなると思います。だからこそ熱が下がった今がチャンスというところもありました。

 

胃ろうって、延命治療みたいに思っていましたが、それをしないと口からの食事だけではカロリーも栄養も薬も取れないので、受け入れるしかない!それを受け入れないとすぐに死んでくださいと言っているようなものだし・・・選択の余地なし!でした。

 

私がソフト食を食べさせているときに、茶碗蒸しくらいのやわらかいものを一口入れただけで、ゲホゲホ言っているので、本当に口から食べれないんだということがよくわかりました。(咳も出せないようになったらいよいよ胃ろうのみになってしまうようです)

 

 

 

ナナッチ、年長さんの卒園式にでました。

女子が号泣しているのを見て、ナナッチもつられて大泣きしていたようです。

 

あと、年中の先生のひとりが退職されるので、「☆☆先生に会えなくなるのが悲しい」と家でも大号泣悲しス。

 

感受性豊かですクローバー


 

父と母の再会2(新しい施設)

 

 

 

昨年(2016年)の7月に父がうちの近くの老健に急遽入れて頂くことになり、歩けなくなった母は緊急入院させて頂きました。

 

その後アメリカから妹が来て、弟が母を連れて老健にお見舞いに来てくれました。(10月)

 

二カ月ぶりの母は激やせしていてびっくりDosomo_kao9

痩せると皺がすごく目立つので、一挙に老けたような・・・

 

 

父は12月に新しい老健に入所しました。その施設に先日、弟がまた母を連れて見舞いに来てくれました。

 

母は、杖をついてなんとか歩ける状態になり、退院して、人工透析のない日はデイでお世話になることになり、食事は宅配のお弁当を頼んでいます。透析があるので、老健や特養は厳しいのが現状です。

 

義母も腰の圧迫骨折で、デイに行けなくなったとたんおむつになりました。(トイレには行けますが失敗があります)

 

子育てと介護が重なると、親の介護問題のほうが断然精神的にしんどいです汗

 

 

子どもはどんどん理解が深まり色んなことが出来るようになる。

親は、どんどん色んなことができなくなる。

 

 

父と母は認知の低下もあり、大した会話をしていませんでしたが、母はハッチとナナッチに会えたのでうれしかったと思います。

 

施設で面会したあと、近くの公園で遊び、ハッチが初詣で買えなかった御守りを買いにまた神社に向かいましたキラキラ

 

 

やっと3人で写真が撮れてハッチは自分で御守りの色を決めて買うことが出来ました。

 

この日は迷わず緑をチョイス。えへ


 

お正月☆四季咲桜を発見!

 

 

 

年末の31日は大掃除で父の施設に行けなかったので、元旦は行きましたが、父がすごいイライラしていて、義足を作ってもらえないことがひどい被害妄想になっていて、これはもう明日公園にでも行って気分転換してみるしかない!と思いましたアセアセ

 

 

 

 

父の施設に行く前に神社に行きました。

 

 

 

 

いつもと違ってたくさんの人がいたせいなのか私が叱ったからなのかなんなのか、ハッチがちょっとした癇癪で、御守りの色が決められなくてハッチのだけ買わずにこの日は退散しました。(写真も一緒に撮れず…)エリザベス

 

 

 

 

そのあと、父の施設に行って、近くの公園に連れ出すことにしました。

 

ハッチが公園にいた同じ年くらいのお友達と一緒遊び出してやっと機嫌がなおりました。

 

そのときに、なんと桜を発見moe

 

 

 

 

四季咲桜という桜が咲いていて、以前から父が「桜を見たい」とよく言っていたので、ハッチのご機嫌も父のご機嫌もなおる絶好のチャンスになりました手

 

 

 

 

二日はそれほど寒くもなく、散歩できて本当に助かりました。子どもたちも公園で思う存分遊べて大満足!!

 

 

 

 

3日は弟が母を連れて、施設に来るというので、とにかくこのイライラモードをなんとかしておかなければやばい!ということで散歩に出かけましたが、物質的に満たしているだけではやはりだめで、父は自分に向けてくれる愛情が欲しいんだなとつくづく思いましたkyu

 

自分のことを思って行動してくれるということに飢えていたのかもしれません涙

 

予期せぬ親の介護

 

 

私の父が老健→老健に移動するときに、介護タクシーを使いました。

介護タクシーも初体験。

 

最初は土曜日ならパパッチも一緒に移動に付き合ってもらえるので、土曜日に入所したいと頼みましたが、「平日でお願いします」とのこと。(スタッフからの説明等が色々とあるため)

 

私が片足の人を介助する方法が全くわからないので、介護タクシーに父を乗せ、私は自分の車で新しい老健に移動しました。

 

 

 

 

 

そして、今度は、父がどうしても眼鏡を作りたいというので、私が福祉車両をトヨタレンタリースで借りて車椅子ごと車に乗せ、眼鏡を作りに行ってきました。

 

普通の近眼とか老眼ではなくて糖尿から見えなくなっているので、見える眼鏡を作れるかわからないんだからねと念を押し、眼鏡を作りに行きました。

 

福祉車両を借りて、車椅子で乗せるのも初体験なので、ドキドキでしたが、なんとかなりました!

 

結局、予想通り劇的に見える眼鏡は無理でしたが、レンズの傷があったりフレームがぐらぐらだったので、同じような度数で新しく眼鏡を作りました。作ってもらえたことが大事なのかもしれません。

 

妹が瞑想をしていたら、父方の祖父母が笑顔で出てきたらしく「おじいちゃんとおばあちゃん、(新しい施設に変わって)喜んでるよ」とラインが来ました。

 

「頑張って動いてよかった〜」と心から思いました。(これもケアマネさんの助けがあってのことです)

 

 

 

 

これで父も落ち着いて年を越せるかな・・・と思ったところで、同居の義母が夜中トイレに起きて転んだんだか(認知症なので覚えていない)なんだかで、3日しても腰が痛い痛い言うので病院に行くと、腰を圧迫骨折していました!

 

とりあえず、デイサービスを少しお休みすると電話をして、ケアマネさんにも電話して、トイレの手すりと起き上がるときの手すりを介護保険でレンタルする手配をしてもらいました。

 

ありがたいことに今日電話して、今日の夕方には設置してもらえました。

 

いつからデイサービスを復活できるかわかりませんが、週一回はお風呂に入らないとまずいかなと思い、お風呂のときだけデイサービスを入れてもらいました。

 

 

 

 

とりあえず、今週はデイを休み、来週コルセットでデイに行けるか病院と相談です。

 

ハッチが、二年生になって色んなことに慣れて落ち着いた時期で本当によかったと思いました。

 

やればやるだけ色々できるようになっていく子供たちと、色々できなくなってくる親たち。

 

子どもたちもそうですが、親もたくさんの人たちに助けられているんだなとつくづく思います。

 

父で言えば、施設の方々、義母はケアマネさん、デイサービスの方々等々・・・

 

結局生まれつき障がいのある人達だけが特別人の手を借りているわけではなく、年を取ればたくさんの人たちの手を借りなければいけないのかと思うと最後は皆同じかも・・・と思えてきます。

 

 

 

 

発達障害より、認知症やパーキンソンのほうが対応が大変な状態になってます(汗)

 

親達のほうが大変だから、余計ハッチがなんでも出来るように思えてくるというのもありますが!

 

私ひとりで介護していたら、子育てとの両立は絶対にできていないと思います。

 

同い年のケアマネさん!いつも迅速に対応して下さり本当にありがとうございます♪

 

親の介護はケアマネさんの支えなしでは乗り越えられません!

 

父の施設変わりました

 

私の母が今年の6月頃から歩けなくなり、父の世話を全く看れなくなり入院しました。

そして、父が7月に私の家の近くの老健に急遽入所することになりました。

 

が・・・三カ月もするともう「出たい」と毎日言うようになり、辛すぎるのか妄想がひどくなり「そこまで嫌なら新しいところを探そう。年内を目標に!」という約束をして、探すことにしました。

 

 

一応、妹に聞いてみるか・・・(リーディング)

 

「お父さん、このままでいいのかな?」(何かすっきりしないものがあるけど)

 

「う〜ん、おじいちゃんが出てきて、感謝してるとは言ってるけど、笑ってないな」

 

「おばあちゃんも出てきて、お味噌汁作ってるところを見せるんだけど」

 

「え〜〜〜まじで〜。確かにこのままでいいのかなというのはあるけど、また探すの〜!!!」

 

「もっとご飯の美味しいところとか、癒されるところっていう意味かな???」

 

「(面倒だけど)探すしかないよね、、、やっぱり」

 

ということで!天国の祖父母の助けもあり(たぶん)スムーズに新しい施設に移動出来ました。

 

今までの老健は緊急で面談もなしで入れてもらえて食事制限などで血糖値も安定したので、そこは感謝だよ!老健に入れなかったら生きてなかったかもしれないんだからね!と言いました。

 

 

 

特養や老健を何件か見学してみて、ちょっといいくらいでは納得いなかいと思ったので、「ここしかない」くらいにピンと来なければ変わった意味がないと思って探していました。

 

家からは少し遠くなりましたが、新しくて人も全然違う!と思ったところで空いてる部屋もあるということで老健に申し込みました。

 

今までが老健の従来型でしたが、ユニット型を見学させてもらったらどうしてもユニット型の個室がいいと思うようになりました。

(それぞれが個室で8人とか10人で一つのユニットになっていて、食事等の広いリビングもユニットの人たちが集まって食べる)

 

今日、忠臣蔵の討ち入りの日は母親の誕生日。

 

母へメッセージを送るために、父の動画を撮りました。

 

「お母さん、おめでとう、ここはすばらしいよ〜・・・みんなやさしいし・・・」とカメラの前で言っていました。

 

天と地の差のようです。

 

地を見たから天と思えるんだとは思いますが。

 

直接の介護で面倒を看ているわけではありませんが、精神的なケアが大変です。父が慣れるまでは私も神経使います。

 

検査の結果、認知機能もかなり低下してきていて点数的には認知症のようです。

 

 

 

前の施設最後の日、家の前で、円の彩雲が見えました。(幻日なのか?わかりませんが)

 

この日はハッチの発達外来の診察の日でしたが、病院を出たところでまたまた彩雲がありました。

 

 

 

これでいいんだよ・・・と言われていると、こじつけよう!


 

父と母の再会

 

 

神奈川に住む弟とアメリカから帰国していた妹が入院している母を連れて、愛知県まで来てくれました。

 

土日は透析がないので、、、でも外出届を出して、日帰りです。2時間以上は滞在できる時間がない!という。

 

ハッチがすかさず、「おじいちゃん、おばあちゃん、何かお話して〜」

 

 

 

 

母親が施設の中の様子も見たいということで、施設で車椅子を借りて、中にも入りました。

 

看護師さんたちが、父に「よかったね〜皆来てくれて!」「大好きな奥さんはどこ?」と言うと、看護師さんを指さして、「そんなおちゃめなところもあるんだ」と言われ・・・

 

本来はお茶目なところもあるんですが、パーキンソンのせいか施設に入って3カ月経って、「出たい出たい病」になっている父。

 

すべてを悪く取る→悪い妄想に発展・・・というか、出たいがための妄想みたいな感じが多くなってきて、私が数日行けないとすごい不安になるのか、ごはんを食べないストライキになることがあったりして、ごはんを食べないと薬も飲めず、ごはんなしで薬を飲んだら血糖が下がり過ぎるのも怖いしと、看護師さんも大変だろうなと思い、できるだけ行くようにしていますが。。。

 

 

 

 

とにかく、父と母を会わせるのも最後になるかもしれないということで、「何か話すことは?」と聞いても、最初こそうれしがっていましたが、だんだん喧嘩みたいになってきて、2人でいると悪いところばかりに目が行って、なかなか病気のことも認められないのがよくわかり、離れた意味もよく理解でしました。(離れて正解と)

 

一時父は、寿命まで長生きしたいと言っていましたが、今はなんで自分だけ自由のない施設にいないといけないのか?ここから出たいんだよ!とそればかりです。

 

ベッドに手すりがあれば、トイレ(ポータブルトイレ)も自分で出来るし、何が問題なんだ?という感じです。

 

家での介護になれば、お酒も飲みたくなるだろうし、血糖コントロールもあるし無理なんだよ〜と言っても聞かず・・・

 

 

 

 

毎日のようにきょうだいとは、ラインで現状を報告しているので、無理して来てくれたんだと思います。

 

平日は、私ひとりで行き、一時間弱くらい音楽を流しながら会話をする。土日は近くの公園で孫と散歩程度の見守りの介護ですが、今はこれがベストなんだと思いました。

 

認知症なども妄想が出る人はかなりいらっしゃると思いますが、家での介護はほんとうに大変だと思います。精神的にものすごく疲れるだろうなと・・・大変なら施設・・・だと思います。

 

施設に入れて誰もお見舞いに来ないときっと「こんなんだから誰も来ないのかな」と思われる不安もあり、できるだけ家族がお見舞いに行っていれば扱いが多少なりとも違うかなと思います。。。

 

父の変化「寿命まで生きたい!」

土曜日に茨城県でブロック長会議があり、スタッフ参加をしたので、ホテルに一泊して日曜日帰るときに、母親が入院している病院に寄ってきました。

 

愛知県の施設に入所している父には、金曜日に見舞に行ったときに母親の病院に行って動画を撮ってくるよと約束しました。

 

父は、ちょっと複雑な表情で、本当は自分も一緒に行きたいんだろうなというのがよくわかりました。

 

母親は、町田市(東京都)の病院に転院していて、ハッチとナナッチもその病院ははじめて!

 

「相模原のおばあちゃん」の部屋に到着すると、母はハッチとナナッチが来てくれたことをとても喜んで、4人部屋から車椅子で出て、休憩所で話そうと飲み物を買ってゆっくり話しをしました。

 

とりあえず、父の動画を見せて、「お父さんは、お母さんと一緒にしゅうまいを売りたいらしいよ。今度は手を広げず、しゅうまいだけを売って、しゅうまいなら座って作れるからってことで、米沢の名前を入れるとか言ってたよ」と言うと、笑いながら動画も見て喜んでいました。

 

現実的にはかわなない夢でも、よく考えたね〜と思ったようです。

 

母親の動画も撮るためにメッセージをもらうと、「今度会いにいくからね〜待っててね〜」と本気で言っていました。

 

「テレビも何もない部屋で、お酒も飲まずにいるよ」と言うと「え!!!」と心底びっくりしていました。

 

そんな状況だから、私がほぼ毎日行って、30〜40分位話を聞いてるよ・・・というと「ほんとうに施設に入れてくれてありがとう」と心からお礼を言っていました。

 

もう先は長くないからと母親は好きなお酒くらい飲ませてあげようという発想で飲ませていたようですが、施設でお酒は禁止です。

 

血糖コントロールもしているので、3食以外はおやつもたべていません。

 

それで、かなり血糖値も下がってきました。

 

月曜日、父に母親の動画を見せるために施設に私が部屋に入ると父は拍手をして喜んでいました。

 

動画を見せようとすると、「○子(ママッチのこと)のところにはすぐに行けるから、お母さんのところに行ったのもわかってるよ。俺はうれしくて、拍手をしてたんだけど音を立ててはいけないと思ってパチパチとはならさないようにしたんだ」と言いながら、そのときも拍手しながら音はさせていませんでした!

 

(半分死んだ人みたい。または生霊か?)と思いながらこんなに喜ぶ父の姿を見て、泣きそうになりました。

 

母親の動画を見せて、「お母さんに何か言いたいことある?」と聞くと、「お互いに長生きしようねと言いたいね。それがあと一年でも二年でもいいから、寿命まで生きたい・・・」と今までの父からは想像もできない前向きな言葉が出て来ました。

 

歩けない、目もほとんど見えない、ご飯とお風呂以外は個室にこもりきり・・・みたいな生活でも、母親に会えるかも!と思う希望だけで寿命までちゃんと生きていたいと思えるんだと・・・

 

夢と現実がごっちゃになりながら、妄想のような話にも飛びますが、ちゃんとわかっているところはわかっているんだなと思います。

 

「今度お母さんと会うときはお前も一緒に来て、口添えしてくれ」とも言っていました。

 

ほんとうは母親といろんな前向きな話がしたかったけど、2人でいるときは出来なかったからかもしれません。

 

両親にはできるだけ真実を話しています。施設のお金、入院費はそれぞれの年金から出してるし、なんとかなっているよということ。立て替えている分はちょっとしかない生命保険からちゃんと精算するようにきょうだいで納得してるから心配しないでと言うこと。

 

母親も父親もお互いの本質はきっととても好き同志なんでしょうが、病気でお金もなくなってくると不満や不安ばかりに支配されてしまっていたんだと思います。

 

二人とも病気により、自分の気持ちに正直になるようになって、自分の気持ちを正直に表現するようになってきました。

 

やっぱり最後は家族、、、夫婦なんだなと、、、

 

施設に入ったばかりのときは、とにかく孫の顔を見せればいいと思っていましたが、あわただしく帰ってしまう私に不満な様子が見えました。自分はひとりぼっちという気持ちに余計させてしまっていたかもしれません。

 

休みの日は子供を連れて、公園に行きますが、平日は私ひとりでゆっくり話を聞いたり、音楽を聞かせたりするようにしています。

 

誰かが自分に注目してくれて、気遣ってくれているということがこんなに変化をもたらすのかとびっくりしています。(日々、ちょっとした感動のドラマを見ているように思えます。笑)

 

介護師さん、看護師さんは少ない人数で多くの人をみなければいけない状況です。

その中で、必要なのはメンタルケアをしてくださる専門の人がいたらすばらしいなと思いました。

 

もちろん家族がそれを出来れば一番いいんでしょうが、それが出来ない状況の方もいらっしゃると思います。

 

今日は偶然、施設で、義母のケアマネさんにお会いしました。

 

父のこともこのケアマネさんに相談して、そく他県なのに入所できることになりました。こんな最短で施設に入れるなんてほんとう奇跡なんだよ!○○さんのおかげだよ!と父にも説明しました。(父はちゃんとお礼を言ってました!)


 

親子ってなんだろう?

 

 

ママッチの実家の両親が急激に弱まって、母は透析ができる病院に入院、父は、母と離れることになり、私達の家の近くの施設に入所してから、私は父の施設に出来る限り毎日通って話をするようにしています。

 

血のつながった親子ですが、知らないことも多く、いつどうなるかわからないと思うようになってから、自分が後悔しないように色々と話を聞いておこうと思うようになりました。

 

父は15か16で(中学卒業してから)東京の大森にある蕎麦屋さんに弟子入りしたらしいです。

それが「愛知屋」と言って、愛知県の人がやっているお店だったらしく、どんなだったの?と聞いてみると・・・

 

朝は、こげ飯、昼はうどん、晩御飯はおかずがちょっとついて、コロッケとか食べれたけど、とにかく「けちくさいんだよ!」と怒っていました〜。(汗)

 

給料は3年間毎月3000円と上がらず、でもそこで調理師の免許が取れたようで、転職して会社の社員食堂で働くようになって「それからは出世は早かったよ」と話てくれました。

 

父と母は長いことある会社の社員食堂を自営していました。ランチのほか、夜は食堂で宴会もあったりして、一日中働いていました。私達きょうだいは近所のおばさんが預かって面倒をみてくれてました。(ほとんどいつも外で遊んでいましたが)

 

今日は、父が好きだったプレスリーや石原裕次郎の歌の動画を見たあと、美空ひばりの動画を見ると、なぜか母親のことを思い出したようで(たぶんカラオケで母親が美空ひばりの歌を歌っていたから)「土曜日外出できるかな?看護師さんに聞いておいてくれ!」と言うので、「お父さんを相模原に連れていくのは難しいから、お母さんに動画を撮って見せて、お母さんの動画を撮ってくるからメッセージある?」

と聞くと、「しゅうまい屋をやりたいんだよ。あまり手を広げず。お店の名前はお母さんの出身地の(山形県)米沢って名前を入れようと思ってる」

 

やっぱり父の頭は働くことが一番にいつもあるんだ・・・と思いながら、「しゅうまい弁当にしてお昼と夕方だけ売ったら?」と言ったら「飯焚かなきゃいけないからな〜」と、現実的な答えが!

 

「足がないから、座ってやれる仕事じゃないとな〜」と本気で言っているので、「そうだね、しゅうまいなら座って作れるもんね。細々とでもいいから死ぬまで働けたら一番いいよね。」と答えました。

 

父は母と一緒に商売をすることが一番の願いなんだなとわかり切なくなりました。

 

父も母ももういつあの世に逝ってもおかしくないので、自分には何ができるだろうと考えてみると、「話を聞く」そしてきょうだいのためには動画を残すというのが一番かなと思います。

 

父の話を聞いて、人生の最期に何を思うのか教えてもらおうと思います。

 

 

会いたいよ・・・父の誕生日

 

 

アメリカに住んでいる妹がまた日本に来ました。

 

母の入院している病院に行ってスマホで動画を撮ったあと、父の施設にお見舞いに来ました。


 

 

 

ハッチもナナッチも一緒に行って、公園で母の動画を父に見せました。

 

「お父さん・・・会いたいよ〜。どうしてる?」

 

と短い動画でしたが、父は満面の笑みでスマホに向かって「元気ですよ〜」と答えていました。

 

施設に入る前は、家で動けなくなった母を頼りにイライラと不安でお酒ばかり飲んでいたようです。(糖尿なのに)

 

糖尿で目がほとんど見えなくなり、片足切断になり、パーキンソンも発症した父を母親は受け入れることができなくなっていたようです。母は、介護うつのような感じになっていました。すごい暗くなっていました。

 

自分もネフローゼという難病で週3回の透析があるのに、いっぱいいっぱいだったんだと思います。

 

父の面倒は私が看ることに決まり、安心したのかすごく明るくなってきました。(ボケも加速してますが!)

 

その数日後にママッチひとりでお見舞いに行ったときの会話。。。

 

「お父さん、もうすぐ誕生日だね」

 

「あのまま酒飲んでたら、今頃死んでたかもな・・・」(ちゃんとわかってんじゃん!)

 

「何か、音楽聞きたい?」

 

「聞きたくない!歌うほうがいい!」

 

「え〜じゃあ、森進一がいいの?」

 

「そうだな」

 

港町ブルースとおふくろさんの動画を見せると、本気で歌ってました。。。(昔はよくお友達とカラオケで歌ってたもんね)

 

 

★9月4日

 

 

そして、今日9月5日は、父の75回目の誕生日でした。

 

ゆっくりと話がしたいと思い、ハッチは小学校、ナナッチは保育園に行っているときに施設に行きました。

 

スマホで動画を撮りながら・・・

 

「75歳になったけどどう?」

 

「こんなに生きるとは思わなかった。72、3歳までと思ってた」

 

「思い残すことはない?」(すごい質問)

 

「・・・ないことはないよ!でもここまで生きるとは思わなかった。ただ、65から75までの10年間は仕事を棒に振ったな」

「体がこんなだからな・・・」

「働いてるときの夢ばかり見てたな・・・」

 

「働かないと、働かないとっていつも思ってたからじゃない?」

 

「そうかもな」

 

「お母さんに何か言うことはある?」

 

「ごめんね・・・だな」

 

「何がごめんね?いろいろ?」

 

「だから、働けなくなってだよ・・・」

「あと2,3年はお母さんと一緒にいれたら最高だったのにな」

 

「あの状態のまま一緒にいたらどうだったかな?離れてみてやっと冷静に考えられるようになったんじゃないの?」

 

「料理を作りたくて、お母さんに用意してくれっていってもやってくれないんだよ。ちょっとした料理でよかったのに・・・」

「あと、家がどうなってるかだな・・・」

 

「○○(弟)が結婚したら思い残すことはないんじゃない?」

 

「そうだな」

 

「○子(ママッチのこと)は2回も結婚式したもんな」

 

「は???誰と?あ〜新横浜と旦那の田舎でね・・・あ〜びっくりした」

 

いつ何があってもおかしくないので、なるべく動画を撮って、you tubeに限定公開でアップして、妹と弟に見てもらうことにしました。母親にも見てもらえるし!

 

父親が心残りなのは、長年一緒に暮らした母と独身の弟のことのようです。

 

そして、今日夜の7時前、ハッチと車に乗っていると住宅街なのに、白っぽいへびがうにょうにょと歩いているではないですか!

 

もうパニックで運転しながら悲鳴をあげました。(ハッチは悲鳴にびっくりしてへびに気がつかず)

 

「なんで、なんで、なんで?こんな住宅街でへび?」

 

よ〜く考えたら、今日は父の誕生日。そういえば父は「巳年」でした。こんなオチになるとは!

 

すべて、ラインで妹と弟に連絡しました!

 

誕生日動画はとてもよろこんでくれました〜

 

 

老健施設のお見舞い(パパッチも)

 

 

夜のイルカショーに行く前に、パパッチも一緒におじいちゃんの施設に行きました。

 

ママッチ、ハッチ、ナナッチが夏風邪を引いてしまい一週間施設に行けなかったら、パーキンソンを発症しているおじいちゃんが妄想激しくなり、「今日死刑執行の日なんだ」と真剣に言うので、やっぱりお見舞いに行かないと不安とか妄想がはげしくなっちゃうのかなと思い、パパッチに妄想でるかもよ〜と説明しながら一緒に行ってもらいました。

 

パパッチが行くといつもよりちゃんとするおじいちゃん(父)

 

外に出て、公園で散歩したので、動画を撮り入院している母に送りました。

 

今日も施設ではちゃんと食事が出るところはいいと言ってました。でもやっぱり母親には会いたいようで、電話番号を教えてくれと言うので、紙に書いて渡してあげました。電話できるわけではないのですが・・・気が済むように!

 

ハッチが「おじいちゃんげんきになってね」と書いた手紙を目がほとんど見えないので読めないんですが、胸のポケットにしまってしました。(それを電話番号が書いたメモだと思っているんでしょうが)

 

今日も夢の話はでますが、変な妄想は出ませんでした。(毎回冷や冷やします)

 

老健施設では入所している方に対して、介護師さんや看護師さんの数が少ないので、本当に大変な仕事だろうなと現場を見ていつも思います。